店員の名札論争から考える、個人情報を開示して接客するリスクと商売のジレンマ

読売オンライン内に立てられた「販売店員の名札に、苗字やフルネームの表記はやめてほしい」というトピックスが注目を浴びています。ほとんどの店舗従業員の胸に着けられている名札は、今後どのように扱えばいいのでしょうか。

 

フルネーム表記を苗字表記に変えれば、本当に安全なのか

『話題になっているのはYOMIURI ONLINEの「発言小町」に2016年8月2日に立てられた「販売職の名札に苗字はやめてほしい」というトピック。コンビニ、スーパー、ドラックストア、レストラン、カラオケなどで店員が苗字、もしくはフルネームが書かれたネームプレートを付けているけれども、それがストーカー被害につながったり、ネットで名指しされ悪口を言われたり個人情報を晒される可能性もある。これについて「自分も被害者だ」という賛同の意見が寄せられる一方で、自分の名前を隠すというのは働くものとしての常識を逸しているという反対意見も多い。
J-CASTニュース 店員にフルネーム名札は危険か 読売オンラインで大論争 2016/08/09』

確かにストーカーという言葉が一般化する20年ほど前から、店舗従業員が着けている名札のフルネーム表記は徐々に減少し、苗字のみの表記が目立つようになりました。特にこの傾向は女性スタッフを多く抱える外食チェーンなどでは顕著で、女性従業員がストーカー犯罪に巻き込まれないよう、名札のフルネーム表記を正式に禁止している企業も数多く存在します。

もちろん名札のフルネーム表記を苗字だけにしたからといって、ストーカー被害がなくなるわけではありませんが、氏名の情報を半分に減らすことで個人を特定する為の難度は単純に上がります。また、今までフルネーム表記だったものが、名前に比べて個性を感じにくい苗字のみに変わることは、犯罪抑止という観点でいえば、犯罪予備軍に対して「我々は無防備ではない」という印象を与えることにつながりますので、一定の効果は期待できます。

ただ、このような「名札の苗字表記化」という流れが起こったのは、現代のようにインターネットが普及する前の話だという事実は忘れるべきではありません。現在のネット環境やSNSなどを利用すれば、フルネームのような個人を特定しやすい情報がなくても、苗字さえあれば職場名や地域などを組み合わせることで、個人情報にたどり着くのはさほど難しい話ではありません。名札の苗字表記化によって得られる犯罪抑止力は、20年前に比べると低下していると考えるのが妥当でしょう。

 

個人情報の開示が信用につながる、商売が抱えるジレンマ

犯罪抑止を目的に、氏名をはじめとする個人情報の露出を控えるようになったのは、児童や生徒を預かる学校教育の場でも同時期に行われ出したことですが、店員の名札が学生と決定的に違うのは、名前という「個」を外部にさらす行為が、接客という仕事を行う上で必要とされているというジレンマが存在することです。

店舗スタッフの胸元に名札がある本来の理由は、来店したお客様が声をかける時に困らない為です。しかし実際には、店頭でスタッフが名前を表記する目的はそれだけにとどまりません。スタッフが接客で親しみのもてる立ち居振る舞いをすることにより、お客様はスタッフの顔と名前を深く認識し、そのスタッフがいること自体が、お客様がその店で商品を買う理由になります。従業員それぞれが「個」の見える接客を行う結果、得られた信頼で商売が成立している業種は非常に多いのが現実です。

たとえば、名札から個人情報を漏らさない対策として、水商売や風俗業で伝統的に行われている源氏名制度の導入や、スタッフ各々に記号や番号を割り振るという意見もあります。売り手が仮名を使った状態でお客様と適切な関係が築けるかどうかは別にして個人情報保護という観点だけでいえば、案としてはアリかもしれません。

しかし、風俗業のように売り手も買い手も匿名性が求められることで成立する業種でない限り、そのルールが長期にわたって機能することはないでしょう。スタッフが彼ら自身の生活圏内にある店舗で働く場合は、彼らスタッフの本名も素性も知る友人や近隣の住人もお客様として来店します。そういう人たちの前で、個人情報を一切漏らさず仮名だけで猿芝居を演じ続けるのには相当な無理があります。

 

商習慣を変えずに、ストーカーリスクを軽減する方法は存在する

残念ですが、不特定の人間に対面での接客販売を行うという営業形態である限り、ストーカーの発生を完全に回避することは難しいでしょう。しかし、いたずらにストーカー被害を発生させない為にできる取り組みや、被害を最小限に留める為に事業所としてできることはあります。不特定多数の目にさらされる接客業では無理だと最初から諦めるのではなく、従業員の身を預かる立場として、ひとつひとつの効果は決して高くなくても、打てる先手はすべて打つという姿勢で取り組むべき課題です。

そういう意味では、店員の名札は最低でも名字のみ、もしくは業種によって一見さんのお客様から声をかけられるのが、商品や売り場案内に関する質問がほとんどである場合なら、ユニフォームや装飾などで一目でスタッフとわかる目印のみを身に着けさせ、店内に「お気軽に○○をつけたスタッフにお声掛けください」という案内を掲示することで済ませても問題はないでしょう。

フルネームでお客様に対峙しないとフェアじゃないとか、名札を掲示しないのは失礼だとする意見もありますが、それらはお客様との会話の中で、必要になれば自然と開示するというスタンスで充分です。売り手個人の情報開示がビジネスの性質上、本当に必要な場合は、ほぼ例外なくお互いのフルネームはもちろん、連絡先も記した名刺交換などが行われているはずです。ふらっと立ち寄ったお店のスタッフが名札を着けていないからといって、頭ごなしに失礼だと考えるのは、クールビズのノーネクタイを失礼だと言うのと同じくらい時代錯誤な感覚だといえます。

また、店員がお客様との交流を深める中で、得られたお客様の情報を店舗単位で共有する風土を持つことは、お店とお客様のコミュニティ形成という商売上のメリットだけでなく、お客様の変化に気付きやすい環境を整える手助けになるでしょう。もちろん経営者は、その変化に早期対応できるよう、準備しておくことが求められます。日頃から警察に出向き、店舗で出来る予防策についてのアドバイスなどを積極的に相談する関係作りを行うだけで、有事の際に警察の対応が違ってくることも充分に期待できます。

 

経営者に求められる、従業員が働く職場環境の保安意識

商売では、売り手が信用を得る為に自己開示を行うことが当たり前とされています。もちろんそれは買い手の立場から考えれば当然のことで、素性や得体のしれない人物が扱う商品にお金を払おうとは誰も思わないでしょう。しかも、売り手のパーソナリティを開示することが、店作りを行う上で競合他社・他店との差別化につながるという現実もあります。

だからといって、経営者が接客の最前線に立つ店頭販売員の受難を放置していい理由にはなりません。組織があらかじめ対策することで、従業員のストーカー被害が一件でも未然に防げるのであれば、率先して行うべきでしょう。職場の安全確保が、従業員の労働環境を整備する上でもっとも優先されるべき事案であることは、何も工場などの危険を伴う業種に限った話ではないということです。